ツリーハウスビルダーINAGAKI YUTAKAインタビュー
稲垣さんは美大出身ということですがなぜ絵を描く道に進もうと思ったのですか?
小さい頃から絵を描くのは好きでしたが、図工と体育以外の勉強は好きではありませんでした。
進学を考えた時に鉛筆デッサンや水彩画が好きだったので日本画を専攻して、多摩美術大学の自由な考え方や型にはまらない方針も好きで浪人して入りました。
大学時代は日本画を学びましたが、絵描きにないたいわけでもなく、将来どうしたらいいか分からなくなり悶々としてました。何か表現したい想いがありましたが、なかなか絵では表現できなくて・・どんどん絵も暗くなっていきました。
そんな時、ゼミで自然分化史というものがあって、校内に合掌つくりの古い建物を移築してあり、そこで囲炉裏を囲んで話をしたり、校庭でとれた野イチゴでジャムを作ったり、それが凄く楽しくて。それで休みに白川郷に行って日本の木造住宅に感動した記憶があります。
卒業制作で絵はやりきった感があり、次に何して良いかも分からず、荒んだ生活をしていました。そんな時たまたま本屋でログハウスの本を見たらログビルダーを募集していて、手に職つけて自然の中で働ける。住み込みで働けるし、これいいなと。適当ですよね(笑)
それでログビルダーとして群馬に移住したのですか?
実際に嬬恋村にきて本当に自然が良くて、ログハウスの仕事も楽しく、これだと思いました。
ログビルダーを3年やって建物の基本も分かったし、なんか違うことやりたいなと。漠然となにか自然の中でものづくりをしたいとは思っていました。
そんな中、きたもっくの福島さんと北軽井沢の炎の祭りで出会い、「仕事が決まってないならうちのキャンプ場に来い」とキャンプ場のサイトマップを作るところからスウィートグラスのキャンプ場で働くようになりました。
その頃のスウィートグラスはどれくらいの規模だったのですか?
森は今みたいにツリーハウスもなくただの森で、牧草地が広がりキャビンと管理等があるだけで、それはそれで凄く良いロケーションでした。始めはモンタナ州リビングストーンのログハウスビルダーが泊りがけでキャビンを5棟建て。スタッフで働きながら、冬の間は暇になるのでキャビンやコテージを作っていました。そうすると近所の別荘を建ててほしいという依頼が来るようになり、キャンプ場のスタッフよりも建築がメインになり後に独立しました。
スウィートグラスのスタッフで働いている時に、福島社長からキャンプ場のフィールドは素晴らしいのだけど、子供たちの遊び場を作りたいと相談されたときに、どうせならこの素晴らしい自然のロケーションに合うツリーハウスを作りたいと答えました。しかし言葉では伝わりづらくて、そこで自分が思い描くツリーハウスの絵を描いたんです。
それがツリーハウスビルダーの原点なのですね
その時に始めて描いた絵が自分が理想に想い描くツリーハウスでした。ただ理想とイメージはあっても何の知識も技術もなかったので、アメリカのオレゴンで開かれているツリーハウスミーティングに参加して勉強し、その絵を描いた5年後にツリーハウス1作目となるトントゥをスウィートグラスに建てました。
ツリーハウスを作るときは、まずその空間に合うツリーハウスをイメージして絵を描き、絵を図面にして作っていくので、この絵はどうなってるのか、自分で描いたものに問いかけ考え、試行錯誤して形にしていきます。
今でも始めて描いた絵にある水辺にポツンと自然の中に浸れるロケーションを探して、理想の木にツリーハウスを建てる事が夢なんです。